「In None Of Places That Are」に捧ぐ


　目が覚めたら、少女の死体になっていた。
　なにも冗談を言いたくて言っているわけじゃない。そもそも昨日、自分は死んだんだ。学校帰りに自転車をこいでいたらブレーキかけそこねてダンプでドカンだよ。よくある事故だけど、即死すぎてはねられた後のことは何一つ覚えていない。死んだのに覚えているってのも変だけども、そもそも自分が幽霊で、たまたま乗り移っている状態なら……とかこの場合考えるだろう？
　でも、自分の姿は死んだ少女であることに間違いなかった。なぜなら近くにある鏡に写っているのが見えているからだ。
　目はカッと開いたまま、舌はだらしなくはみ出している。首には締められた跡がくっきりと残っている。
　そして僕の、彼女の体は全裸だった。股間から白い液体が漏れている。
　真っ暗でよく分からないが、たぶんここはラブホテルかどこかなんだろう。
　で、犯された後に絞め殺されてこの有様。
　嗚呼、なんなんだよ。
　今まで生まれてこの方家族以外の女の子の裸も見ないで死んだ童貞だって言うのに、ここにきて死んで、生まれ変わったら自分が全裸少女死体かよ。初めて見た女の子の裸がヤられた後の死体かよ。
　そもそも生まれ変わったのに死んでるとか、嫌がらせ以外の何者でも無いだろ？
　死にたい、と言いたい所だが、もう死んでいるんだからどうにもならない。

　まあ仕方ない、自分の姿でも見てみようか。
　年齢は、自分と同じくらい。若い。髪の毛も長くて、黒くてさらさらだ。まあ残念なことに、締められた際に嘔吐してしまったのがかかって、髪の毛は汚れてガビガビだけれども。
　体は痩せぎすだ。アバラも浮いている。手脚は折れるように細くて真っ白だ。それでいてふんわり柔らかげな肉がついているあたり、男だった僕とは違うんだなあと感じる。
　胸はほとんどない。けれどもやはり男にはない乳房の存在は見える。
　なんだか、全身ほっそりしているのに、ぷわりと液体で包まれているかのような奇妙な感覚を覚えた。
　なんだかこのまま、体全体がゲル状になって溶けていき、揮発して空気を漂っていくんじゃないかとすら思った。
　むしろ、いっそそうなればいいのに。
　だって、なんせ顔がひどい。
　いや、おそらく生前はかわいかったんだろう。しかし絞殺されてしまった今となっては、グロテスクに睨みつけたまま、だらりと舌と唾液をこぼす奇怪な存在でしかなかった。
「少女は死んでもきれい」なんてあり得ない。当たり前のことを目の前に叩きつけられる。
　そして、よりによって一番気になる性器の部分はこの角度からでは見えない。ただ周辺に白い液体が溢れているのが見えるだけで、しかも失禁をしているのでシーツが黄色い。
　
　不思議と感情は湧かなかった。
　死んでいるから当然かもしれない。多少の混乱はあるけれども、生きていた時のそれとは大違いだ。
　真っ暗な闇の中で、ただひたすらに死んだ少女になっている自分を見続けるだけの時間はあまりにも長いけれど、退屈でもないし恐ろしくもなかった。絶望くらいするかと思ったけれども、意外とどうでもよくなってきた。
　触覚は全く無いのだけれども、目と耳は何故か感覚が残っているようで何故か周囲の様子は感じられる。
　隣の部屋から喘ぎ声が聞こえる。
　奥さん、あなたの部屋の隣で死体が眠っていますよ。
　
　まあその内、部屋掃除で片付けが来るだろうし、そうしたら警察が来て運ばれて、焼かれて灰になるだろう。
　自分は待っていればいい。なんだ楽なもんじゃないか。
　
　生前の記憶。
　はねられたことは覚えているが、それ以前は曖昧だ。
　こういう時に死体に生まれ変わる（何度考えても腑に落ちない）前の状態を思い出したり出来たら面白かっただろうに、僕には記憶を持つ権利すらなかったようだ。
　今あるのは、目の前のこの真っ暗な部屋と、鏡に映った自分の死体の姿だけ。
　
　ぱっと部屋の明かりがついた。
　どうやら、片付けの係の男が来たようだ。
　若いだろうか、たぶん二十前後。
　面白いようにこの姿を見て、男は飛び上がった。そりゃあそうだよな、自分だってラブホの部屋掃除で死体出てきたら嫌だっただろう。
　それにしても、電気が付くと目玉が焼けるように痛い。色々なものが雪崩のように押し寄せてくるのを感じる。
　赤、青、黄色、緑、紫。
　白、黒。
　まるで初めて見る光景のように、ホテルの中のありとあらゆる色が飛び込んで目に刺さってきた。
　今までも見てきたはずなのに。日々様々な色を見続けてきたはずなのに。全くの新しい感覚で道溢れていた。赤ん坊が生まれてきた時は世界はこんな風に見えるんだろうか。
　血の行きめぐらない脳がウルウルと唸りを上げる。様々なものを鎖でつなごうとしては失敗し、交通渋滞が続く。
　
　慌てた片付けの男が間違って押したのか、テレビのスイッチも入っていた。テレビから大きな音が聞こえた。あいにく画面は見えない。
　なんだ？　この飛び込んでくる声の波は？　何語なんだ？
　そもそも自分は何人なんだ？
　確か生前は自分は日本の高校に通う男子だったはずだ。鏡に映る自分の姿も、日本人かあるいはアジア系だと思われる。
　しかし彼女の脳が言葉を受け付けてくれなかった。男がしゃべっている言葉も、テレビから聞こえる音声も、全くもって理解が出来ない。
　彼女は日本人じゃないから分からないんだろうか、それとも自分が日本語すらも忘れてしまったんだろうか、あるいはここは全くの異国なんだろうか。
　色々考えて、そしてやめた。
　すべてはどうでもいいことなのだ。
　
　ふと気がつくと、片付けの男の顔が自分の顔の側にあるのに気づいた。目と耳しか感覚がないので、人の気配が分からなかったのだ。
　二十代半ばくらいだろうか、いかにも片付け係という感じの清掃着を身にまとっていて個性はない。
　男がなにかをつぶやいている。なんと言っているかは分からない。
　彼は僕の、彼女の体を仰向けにした。はみ出した舌を口の中にしまい、嘔吐をタオルで拭き取った。
　体もまっすぐにさせられているようだったが、見えないので分からない。
　彼は僕の上に覆いかぶさっているようだった。
　ああそうか、この男、僕の、彼女のことを犯そうとしてるんだな。
　なんて悪趣味な。
　一度死体になった自分の姿を見てしまうと、それを犯そうと必死になっている男の姿が滑稽でならなかった。慌てているのかズボンがうまく脱げず、腕をごそごそさせている。
　自分の中には嫌悪感も恐怖も湧かなかった。まあどうせ死んでいるんだし、そもそも自分の体ですらない。いや今はこれが自分の体なのか？　いずれにしてもどうでもいいことだった。
　ただ、男は僕の、彼女の目を閉じることを忘れていたせいか、男が必死になっている様が丸見えなのはちょっと面白かった。
　ものすごい慌て方で服を脱ぎ、そのあと一度鍵でもかけにいったのか飛び出して行き、また慌てて戻ってきて僕の、彼女の上にまたがった。
　全裸の体を死体に押し付けてくる。あいにくと自分の体の感覚は一切残っていないので、どうなっているのかは理解できない。
　そして多分、挿入してセックスをはじめたのか男が鼻息荒く必死になりはじめた。
　今自分の目の前にあるのは、必死な知らない男の顔だけ。世界のすべてがこれだけというのはなんとも笑うしかなかった。笑えないけど。
　
　どうも自分の中には時間の感覚もないようだ。
　彼の一連の行為を適当に見ていると、勝手に終わってしまったようだ。どのくらい時間がかかったのかは分からない。
　しかし、事を終えた男のパニックぶりが異常だったのだけはよく見えた。大声で分からないことをわめいたり叫んだりしていた。ゴンゴンとする音は、壁に頭でも打ち付けているんだろうか。
　別にもういいんじゃないの、死んでるんだし。僕は気にしないよ。
　と言うことも出来ず、滑稽な有様を眺めるしかなかった。
　
　ああ、天井だ。
　ラブホテルの天井って鏡がはってあったり派手だったりするのかと思ったけど、意外と普通なんだな。
　むしろ、天井のクリーム色が不思議と新鮮だった。
　この天井の向こうにあるのは、空。
　しかしその空を見ることも出来ない。
　空ってどんな色だっただろうか。
　風ってどんな感触だったんだろうか。
　水ってどんな冷たさだっただろうか。
　食べ物はどのくらいおいしかったんだろうか。
　エッチってどのくらい気持ちよかったんだろうか。
　太陽の光ってどのくらいまぶしくあたたかかったんだろうか。
　感じたことがあるのかもしれない、無いのかもしれない。
　知識としては脳の中に残っている。それは僕の生前の記憶なのか、少女の脳に焼き付いているものなのかも定かではないが、空があり、海があり、街があるのは理解はできているのだ。
　なのに、全く感覚が分からない。
　だから、感情も湧かない。
　狂乱する男を見てもなんとも思わない。
　今の僕の世界の全ては、このクリーム色の天井だけだ。
　
　あれからどのくらい経っただろう。
　どうも僕は、彼女の体は、バラバラにされてしまったようだ。
「ようだ」と言うのは、見ることが出来ないからだ。
　一連の男の発狂の後、男は出ていってすぐ戻ってきた。血走った目で僕の、彼女の目を布で覆い、それっきり何も見えない。
　ただ、ごりごりという音や汁の溢れ出す音が聞こえたから、多分バラバラに切られているんだろうな、と言うのだけはわかった。
　そして、今僕の目の前には自分の左腕がある。こんな角度で見えるというのは面白いものだ。ビニール袋の中にでもほおりこまれたんだろう。
　左腕の手首には、ひっかき傷で何か文字のようなものが書かれていたが、自分には読み取れなかった。どうも自分の中の脳が混線しているみたいだ。もう文字や言葉には頼れない。
　ガタガタとした音の中、自分はまた先ほどと同じように、自分がゲル状になって溶けて行く幻覚に襲われた。
　どろっとした液体になって何もかもとけて行き、感覚をすべて失って消滅していく。そうなるのはもう間もなくだろうという不思議な予感。
　特に感情は起きなかった。
　
　ガタンと音がした。
　自分の入っている袋が取り出されたのか、乱暴に運び出された。目の前で脚や腕やお腹が行ったり来たりする。
　もうちょっと丁寧に扱って欲しいなあ。
　そんなことを思っていると、男の絶叫とともにビニール袋は大きくほおり投げられたようだ、ものすごい勢いで目の前が回転し、どのくらいか時間がたって地面に叩きつけられた。
　ビニール袋は破け、腕も脚も胸も尻も四方八方に飛び散っていくのが見えた。
　体にさよならの目線を送った後、ものすごい勢いで回転した。多分首だけゴロゴロと転がっているんだろう。何があるのかすら全く見ることが出来ない。
　ようやく回転を止めたとき、幸いなことに自分の顔は天を仰いでいた。
　
　目の前には、たくさんの木々が生い茂っていた。
　森、そう、これは森だ。
　周囲にあるのはおそらく、土と草だ。
　木々の間から、無数の光が見えた。
　星。僕は、彼女の脳は知っている、あれは星だ。
　無数の白く小さな光が、目の前いっぱいに広がっていた。
　感情なんて無いと思っていた。しかし無数の星を見たとき、脳の中がぐるんぐるんと回る感覚に襲われた。
　僕は、開放されたのだ。
　
　多分自分の、彼女の首はずっとここに、誰にも見つけられることなく置かれることになるのだろう。
　僕は、この森の中の音を聞き、空を眺めるのだろう。全て知っているけれども、経験として分からないものばかりだ。胸はもうないけれども、胸が躍る。時間の感覚もないから、きっとそれは楽しいことだろう。
　そして次第に自分の体は腐っていって、土に返るだろう。あるいは動物たちに啄まれて栄養となるだろう。
　この僕の、彼女の首を養分にして、草木が芽生えて新しい感覚を受けていくんだろう。

　きっと、また何かに生まれ変わるのだろうか。
　なかなか愉快じゃないか。

　ふと僕は気づいた。
　ああ、心から愉快だと思っている自分がいる。
　感情が芽生えたんだ。